企業の目で見る「給与のデジタル払い」

  • 2023年3月

企業の目で見る「給与のデジタル払い」

  • 2023年3月

「給与のデジタル払い」とは

 読者の皆様のお勤めの企業又は身近な企業では、どのように給与(=賃金)を受け渡ししているだろうか。大多数は銀行口座/証券総合口座を使った振込、中には現金での手渡しの場合もあるだろう。そんな当たり前のことをなぜ聞くのか、と思うかもしれない。だが、この給与の支払いが今大きく変化を迎えようとしている。

 それが「給与のデジタル払い」である。2023年4月より、“資金移動業者(※1)の口座への賃金支払”すなわち、振込先の選択肢として資金移動業者の口座が増えるのだ。資金移動業者とはPayPayやLINE Payなどといったいわゆる決済アプリを提供する事業者のことだ。

 ※1:資金移動業者:為替取引(顧客から、隔地者間で直接現金を輸送せずに資金を移動する仕組みを利用して資金を移動することを内容とする依頼を受けて、これを引き受けること、又はこれを引き受けて遂行すること)を行う銀行等の預金取扱金融機関以外の者

 そもそも給与は、労働基準法によって「通貨」(=現金)で直接労働者に支払うことが義務付けられている。ただし、労働基準法施行細則にて例外的に労働者が指定する場合のみ銀行口座/一定の要件を満たした証券総合口座への支払いを認めている。そんな中、2022年11月に改正された労働基準法施行規則の施行に伴い、2023年4月から給与のデジタル払いが解禁となる。

 ここで、給与のデジタル払いの主なステークホルダを整理しよう。

  • 労働者(ユーザ)    :企業に労働を提供する生活者、決済アプリのユーザ
  • 給与支払企業           :提供された労働の対価として、給与を支払う企業
  • 資金移動業者           :決済アプリの管理・運営主体
  • 銀行                         :銀行口座の管理・運営主体

 今まで、決済アプリのユーザである労働者は、給与支払企業が銀行口座に振り込んだ(または手交された)給与を、決済アプリ口座に入金して利用(決済)していた。しかし今後は、給与支払企業が決済アプリ口座へ直接給与を振り込みできるようになるため、手間なく決済サービスを利用できることになるのだ。

 給与のデジタル払いに関する議論は、平成29年国家戦略特区ワーキンググループにおける「ペイロールカード(※2)」導入に向けた規制緩和の提案から始まったとみられる。政府が労働力確保のため、外国人の労働環境の改善を進める中、給与の受け取りの課題が挙げられた。外国人が日本で銀行口座を開設するには様々な制約があり、給与の受け取りに難儀することが多いのが実態だ。その対策として、アメリカのペイロールカードのように銀行を介さない給与振込の導入を検討していた。

 ※2:米国において労働者に賃金を支払う目的で使用者(給与支払企業)が提供するプリペイドカード

 しかし議論のスコープは、外国人労働者にとどまらず、日本人労働者にまで及んだ。例えば、普段から決済アプリを利用している場合、決済アプリ口座への入金をよりスムーズに実施できないかなどといった内容だ。その結果、外国人労働者を含む多様な賃金払いのニーズへの対応ならびにキャッシュレス化の促進を目的に、決済アプリ口座への給与振り込み解禁に至ったのである。

 ただし、資金移動業者が破綻した際の保証金を振り込むため銀行口座の紐づけが必須となる可能性が高く、当初検討していた外国人労働者向けのメリットは薄くなる見込みだ。

 このような議論の発端ゆえに、労働者目線で語られがちな給与のデジタル払いだが、先に挙げた関連企業達の目にはどう映っているのだろうか。

 

企業視点で捉えるメリット・デメリット

 給与のデジタル払いの導入・普及により、各関連企業には次のようなメリット/デメリットが生じると考えられる。

 特に着目したいのは、将来的に大きな影響を受ける「給与支払企業」のメリットとして挙げている「振込手数料の低減」である。元々、給与支払企業は、給与を銀行口座へ振り込む際に手数料を負担しており、支払回数が多ければ多いほど負担は大きくなるという課題があった。しかし、決済アプリ口座への入金は現時点で無料(※3)のため、その手数料体系が引き続き適用されるとすると、給与の振込先を決済アプリ口座にすることで経費削減に繋がると考えられる

 ※3:あくまで個人利用におけるケースである。給与の振込に伴う手数料は各資金移動業者のリリース情報等を参照されたい。

 加えて今後、給与のデジタル払いをはじめ、決済アプリ口座の利便性は向上し、銀行口座との機能差は小さくなっていく見通しだ。

 こうして両者の機能や利便性の違いが無くなってくると、手数料の差が際立ってくるであろう。これにより、銀行に対して振込手数料の低減圧力がかかり、給与支払企業の更なる経費削減に繋がる可能性がある。銀行は、現行の手数料を維持することが難しくなる可能性があるため、対抗策の検討が必要であろう。

 また、振込手数料の低減はより高頻度での振り込みを可能にする。これによりアルバイトや副業等の短期人材を登用しやすくなるなど、雇用の柔軟性向上にも繋がるのだ。

 さらに雇用の観点から言えば、資金移動業者の新たなビジネスチャンスが考えられる。

 例えば、決済アプリと企業-人材サービスとのコラボレーションだ。資金移動業者は、決済アプリのユーザとして労働者(求職者)との太いコネクションを築いている。資金移動業者が企業-人材マッチングサービスと提携し、決済アプリ経由で誘導することで、求人企業に効率よく人材を斡旋する事業提携モデルが考えうる。

 馴染みある決済アプリを窓口にすることで、労働者(求職者)にとっては求職活動のハードルが下がる。人材サービス業者にとっても潜在層の掘り起こしや顕在層への新たなアプローチが可能となり、マッチングサービスの利用機会の拡大につながると考えられる。資金移動業者としても、窓口役として得られる提携料収益に加え、決済アプリ利用者との接点増、データ獲得が見込める。

 更に就職した労働者に対して、対象の決済アプリを給与の振り込み先とした場合にポイント付与などを適用することで、決済アプリの取扱高拡大にも繋げられそうだ。ポイントキャンペーンによる利用者囲い込みという決済アプリの“十八番”を活かさない手はない。(※4)
 ※4:制度面については留意が必要である。例えば、「改正職業安定法(令和4年10月1施行)」では、特定募集情報等提供事業者(求職者に関する情報を収集して募集情報等提供を行う事業者)に事前の届出を義務付けている。

 

普及の見通しと企業の課題・展望

 給与のデジタル払いの導入にあたり、関連企業は各々対応が必要となる。その中でも特に資金移動業者の対応が急務であり、注視すべきであろう。資金移動業者は給与のデジタル払いの対象口座となるために、厚生労働省へ申請を行い、審査を通過して「指定資金移動業者」となる必要がある。その指定要件には、給与の確実な支払いを担保するために資金保全(破綻時などの保証)や換金性(適時の換金)、不正引出しの対策・保証などに関する項目が設定されている。(※5)

 ※5:具体的な要件については「労働基準法施行規則の一部を改正する省令(令和4年11月28日公布)」を参照されたい。

 中でも注目したいのが、要件の最後に挙げられている「賃金の支払に関する業務を適正かつ確実に行うことができる技術的能力を有し、かつ、十分な社会的信用を有すること」である。どれだけ給与のデジタル払いに関する制度や仕組みを整えても、実際に利用する労働者から選ばれなければ無用の長物になってしまう。選ばれるために肝要なのは、技術的能力の裏付けとともに、労働者から『このアプリなら給与を預けても大丈夫だ』と思われること、すなわち「十分な社会的信用を有する」ことだ。

 技術的能力と社会的信用は以下の事項を含め総合的に判断されるものと厚生労働省は示している。

  • 指定申請時において、資金決済法に基づく行政処分がなされていないこと
  • 給与が確実に支払われるための措置を講じていること
    (支払前に労働者が指定した決済アプリ口座が存在することを確認するなど)
  • 「プライバシーマーク」など個人情報の取扱に係る第三者認証を取得していること

 上記に加えて、労働者からの知名度や多数の取引実績なども総合的な判断において重要だろう。他方、労働者側のニーズはどうだろうか。以下の2019年と2022年に実施された調査結果を参照されたい。(別調査ではあるが、共にキャッシュレス決済(コード決済)利用者を対象としたアンケート結果である。)

 2019年の調査では、全体の6割は給与のデジタル払いの利用を検討しないという結果となっており、さらに、2022年の調査では、デジタル払いの利用意向を持つのは全体の3割弱、給与全額のデジタル払いを希望するのは1割弱となっている。この割合を多いと見るか少ないと見るかはあるが、制度さえできればすぐさま普及するという情勢でないことは言えるであろう。その理由は様々考えられるが、資金移動業者としては、技術的能力と社会的信用を獲得しつつ、それを広く認知・理解してもらう必要がある。無論、給与支払企業や銀行も情勢に応じた対応が必要となるが、この制度普及に伴い、金融インフラの多様化や安全性の向上、またユーザの利便性の向上などに繋がることを願ってやまない。

 給与のデジタル払いは、労働者だけでなく多くの企業にも大きな影響を与えうる施策であることがお分かりいただけただろう。来たる環境変化に備え、各企業が必要な準備・対応にあたるための一助となれば幸いである。

 

<執筆者>沼澤 錬

論考・レポートに関するお問い合わせ